昭和50年10月31日 朝の御理解
御理解第24節 「人に誘われてのしょうことなしの信心は、付焼刃の信心じゃ。付焼刃の信心はとれやすいぞ。どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力を揃えれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中勢を揃えた信心をせよ」
「家内中勢を揃えた信心をせよ」と。どこに焦点を置いて、勢を揃えるという、それは一人一人に願いが違うし、また信心の段階もまちまちです。けれども、それはどんなに微力ではありましても、それが数が集まると、人数が集まるというか、それが一つの力ということになる。言うならば、大勢で掛け声を一度に力を揃えれば。持ち上がらぬ、ばらばらでは持ち上がらぬ。
だから、信心をしているというだけでなくて、どうぞその身から打ち込んでの真の信心でなからなければならないということです。お道でいう真の信心ということは、いろいろに説かれます。まあいろいろに説かれます。まあいろいろ説かれる。それがやはり真の信心でもありましょうけれども。
今日、私は、これなら間違いがない、絶対のものだということは、「此の方のことを生神生神というが、皆もその通りのおかげが受けられる」と又のみ教えにありますが、誰でもが生神になれれる道なのです。それを生神になれる道ということは、大変難しいことのようですけども、生神になると言うから難しいのであって、生神に還って行くということになると、私は、みやすう考えられると思う。ですから、どんなに信心の程度が違っとってもよい、お道の信心、金光様の信心、しかも真の信心という一線上に出ることができる。
総生神ということを言われますが、私どもが生まれると同時に、私どもは生神様の分身というか、分霊を頂いてこの世に生を享けておるのです。それが物心が付く、いや物心が付かんでも、いつの間にか、我情が出来、我欲が出来て、言うならば、生神とは似ても似つかない、言うならば、人間に変わり果てて行っておるのでございます。教祖様は、そういう大変なことに気付かれたお方だと思うです。
そこで、信心とは本心の玉を研くものであり、信心とは日々の改まりが第一であり、我情我欲を放れてとこういうことになるわけです。ですから、家族中の者が信心をさせて頂くということも、それぞれ生神に還って行く稽古をすることだと、そういう思い方、そういう思い込みを各々が作るということ。そこからです、一事でも、二事でも改まって行く。または、事を通して、物事を、言わば通して、本心の玉を研いて行くということになれば、それはそれだけ神様に近付いたということになるのです。神様に言うならば、還って行くことになるのです。
そこに、天地とのつながり、私は思うのに、「どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心」と言うておられるところがです、私は、「家族中勢を揃えて信心せよ」と言われるけれども、それぞれの、その信心の程度が違うし、子供は例えば、学業のことを願うのかもしれん。「試験がありますからどうぞ」と言うて願っとるかもしれん。主人は商売のことを願っとるかもしれない。家内は、まあ子供たちのことを願ったり、家内のことを願っとるかもしれない。願いの焦点というものはまちまちだ。
だから、まちまちのことを願って、勢を揃えることにはならんだろうというように思うておった。事実そうである。信心の段階、また願いはそれぞれに違う。だからそれは違っても良いのだ。それぞれの信心段階において、願い・祈りは違っても良い。勿論、修行も違って良い。必ず毎日日参せんならんこともない。その人の程度程度に応じて、力に応じての祈りであり、信心であればそれで良いのである。
いかにも、それはばらばらのようであるけれども、決してばらばらではない。それは、お道の信心は神に還って行くことだと。生神に還って行くことだけが同じであれば良いというのです。主人が商売繁盛を願う。願い事が深刻であればある程、自分の心に取組まして頂くことも深刻である。そして、研くことは、改まることは、神にそれだけ還ったことになる。子供が試験のことを願っておる。それで良いのである。そのためには修行をする。今まで参りよらんやった者が、朝参り始めたり、やはり自分で工夫する。その工夫しただけは、神に還ったことになる。
私は昨日、このことを頂きましてね、ああ一丸になるということは大変難しい。とても私どもは、生神様にならんで良いという気がするんだけれども、もう大体、生神への性根は持っておるんだから、生まれた時から持っておるんだから。だが、何年かの間に、我情我欲が、似ても似つかわない人間が出来上がっとるというわけです。ことをです、分からせて頂いて、信心すりゃ、これからのです、もう願い事、お詫びごと、またはお礼ごと、様々の信心の中に、お礼の印に改まる。お詫びの印に清まる。
これだけのことをしているから、一修行させて頂いて、本気で、本心を尽くさして頂こうということになれば、それがすべて神に還って行くことになるのです。ああ、そういう意味において、私は、勢を揃えて行くということが、そこの所の根本のところが分かってからの信心であれば、それぞれの力量に応じて、または信心に応じて、生神に還って行く精進を、まあ一生がかりで、各々が出来ることになる。
これならば、「どうぞその身から打ち込んでの真の信心」と仰せられるが、その信心に向きを変えてしまうということが出来ることがあるのです。生神へなる稽古、成程それでも良いけれども、生神に還って行くということになると、成程誰でもが受けられるということになるのです。だからここの所だけが、どうでも一つ、言うなら、生神の自覚とでも申しましょうか、人間神の氏子という自覚でしょうか。人間神の氏子である。神の氏子であるという自覚。
私は、今日、「身凌ぎの出来るという信心を」と言うてあります。この身凌ぎの出来るということが、どういうことかと言うと、金光大神の御取次を頂いておかげを頂いてきた。ところが、金光大神の御取次を頂いて、今日言うところの、真の信心を頂いて行く。真の信心が身に付いてくる。一歩一歩神に近付いて行く。言うならば、天地と同じようなものというか、天地の親神様の心と同じような心に近付いて行くことが出来るということ。
そこからね、私は、天地の親神様との交流、それが商売繁盛に使われても良い。病気治しに使われてもよし。様々な難儀な問題に取組ませて頂く時にです、おかげを下さるのは、天地の親神様なのだから。どんなに例えば、お稲荷様でありましてもです、どんなに、例えば、お狐さんが如何に霊力があるというてもです、力を発揮しなさるのは、やはり天地金乃神様ですから。如何に生神金光大神様が頑張んなさっても、生神金光大神が病気を治しなさることは出来ないですね。生神金光大神の御取次によって、天地金乃神のおかげを受けることが出来るんだ。
最近、合楽で、霊様に願うことは、頼むことは、もうこんな滑稽なことはないということに、いわゆる、霊観ということが変わってきた。素晴らしい信心の進展と、自分で感じておる。今までは、もう本当に、死んだ者を引っ張りだして、舞台に引っ張ってきて、踊らせるようなことである。それこそ、霊様こそよい迷惑であり、それこそ、こそばゆいことであろう。金光様は、霊様を大切にすることを教えられた。先祖を救うことを教えられた。しかし、「先祖に頼め」とは仰ってない。頼ませて頂くのは、此方金光大神お一方である。しかも、その金光大神お一方に頼むということも、なら、金光大神が不思議な力、働きであるということが出来るのである。
その不思議な力を、働きを現わして下さるのは誰あろう、天地金乃神様だけである。その天地金乃神との交流が出来るようになるのですから、もうそこには、金光大神を置いておいても良いことになるのです。天地の親神様、いかにも神様のお喜び、天地金乃神様の御感動を受けるような、心の状態、在り方にならせて頂く時に、金光大神は、御取次のおかげを頂かなくとも、天地金乃神様との交流が出来るのである。それを、私が、身凌ぎが出来る信心とはそういうことだなと気付かせて頂いた。
神様から直接に色々頂く。それは、すでに天地金乃神様、天地の親神様との交流が出来ている。そこでです、そんなら金光大神はもういらないということにもなるけれども、私どもが天地金乃神様と交流させてもらう。交流の度合い、程度から申しますとです、金光大神をおいては、金光大神の右に出ることは出来ない。言うならば、後にも先にも、此方お一人、どれだけの年数を、これ程しのお方はまたと世には現れるとは思われない程しの御神徳を受けておられる。「天地金乃神と同根」とまで言われております。仰せられるのですから、神の教えに基づいて、私どもは日々の信行、その信行というのがどういうことかと言うと、我神に還って行くという修行なのである。ね、そういう修行が出来て行く間にです、天地との直接の交流が出来るようになるのである。お伺い事が出来るというのは、天地との直接の交流が出来ておるのです。
成程、身凌ぎとはそういうこと、と言うて、そんなら金光大神は、もういらんのかというとです、私どもが神様から受ける、天地の、なら、御信用を、金光大神が受けておられる御信用とは、もうそれこそ、天地程の開きがあるところにです、いわゆる、「神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜び」と仰るのは、私どもと天地金乃神様が直結して、天地金乃神様のおかげをどんどん頂けるようになった時に、横に見て御座る金光大神が喜んで下さる。
「あれはもう俺を抜きにしてから、もう直接天地金乃神様のおかげを頂きよる。あれはけしからんやつじゃ」というのではない、そういうことが出来るようになることが、金光大神の喜びのです、もう様々な話向きがありますけどね、ここの理が分からずしておっては、おかげにならん。
だから、これは金光大神でなくても良いことになるのです。ある意味では、ね、身凌ぎが出来るようになれば。けれども、なら、いよいよの時にです、天地の親神様のおかげを頂かんならん段取りになった時にです、なら、自分が受けておる天地間の信用と、金光大神の受けてござる信用とは、天地程しの違いがある。違う、働きが違うから、やはり、金光大神の教えに帰依し、依存さして頂くことが一番最高である。と言うて、一々「金光大神」と言わんでも、神様との直結、いわゆる身凌ぎの出来るような信心にもならして頂かねばならん。
今日は、だから、「どうぞその身から打ち込んで真の信心を」ということをです、「我生神に環って行く」という、そういう在り方をです、なら、「家族中の者が勢を揃えて」と仰るのは、家族中の者が五人おれば五人、十人おれば十人十色である。場合によっては、金光様だけでないかも分からん。その中には、創価学会の嫁がおってもよい、天理教のがおってもよい、何様がおっても良いけれどもです、そして、願いの、その焦点も違ってもよいけれどもです、私どもが天地金乃神様の御氏子であるという自覚に立って、そして、「我神に環って行くことが信心だ。それが真の信心だ」と気付かなければ駄目。でなかったら、自分が助からんです。生神に環って行く生き方、そこんところだけが、私は、揃うて行けばよい。
言うならば、その真の信心ということをです、神に言わば環って行く修行とでも申しますか、今日は、真の信心とはそこ。打ち込むと言うならば、そこに打ち込むということ。そこで、なら、家族中の者がです、大人もおってよし、子供もおってよいけれども、様々な願いは別々であるけれども、願いの焦点は違うけれども、ここだけは踏み外してはならない。我生神に環って行く修行をして行く。子供が勉強のことを願うだろう。試験のことになるだろう。願うからには修行がある。その修行がそのまま、生神に環って行く修行ということになればよいのです。
私はここんところを、今まで大変、これは本当に、この人は病気のことを頼みよる。この人は商売のことを願いよる。それで「生神金光大神」といくら言うったっちゃ、一家勢を揃えることにならんのじゃないかと思いよった。信心の段階、信心の度合いというものは、第一、願うことすら、第一違いなのだから。それで今日は、よいということです。
ただ問題はです、我生神に環る修行だけはです、これは金光教だけではない、もう何宗、何派だってよいのです。人間が本当は、神の氏子である。その神の氏子である人間が、言うなら、様々な汚い根性が付いて、有難いどころか、汚いどころか、浅ましい心を使う程しの人間になり果てて、性が変わりそうになっている時に、改めて、金光大神の御出現にあって、「金光教の信心とは、生神に環って行くことだ」と言われたわけである。しかも、誰でもなれるんだということになる。
だから、「生神になる稽古ばい」と言うたら、大変難しいようにあるけれども、生神に環って行くことに、言わば思いを変える時に、一応誰でもが、その修行をさしてもらわなければならんのだということに気付くのです。願いもまちまちでよいのです。そして修行さしてもらう。改まらしてもらう。研かしてもらうというても、そのことが生神に環って行くことの修行をしておるのだ。と言って、このところだけは、お互いの焦点が足らわなければ、大勢掛け声をかけて、一緒に持ち上げるという働きになって来ないのです。
だから、総氏子がそういう心にならせて頂けれる運動が、「御取次成就信心生活運動」ということになるような、和賀心時代を世界に広げて行こうというようなです、総生神を目指すというて、総生神に環って行く生き方、どうぞ一つ今日は、皆さんお宅に帰られたらね、ここんところ、どうでも、子供にでも、年寄りにでも、金光様と言う信心をさせて頂いておる。その者が、とにかく生神に環って行く、修行をさして頂くことの、事訳をです、皆に聞いて頂いて、願いはまちまちでもかまわん。信心の度合いは別々でもかまわん。御参りの回数はその人の信心程度のことである。
けれども、その身から打ち込んでの真の信心ということを、今日は生神に環って行くというふうに聞いて頂いた。生神に環って行ける楽しみ、喜ばしさといったものがです、いよいよ各自の信心を嫌が上にも、有難いもの、楽しいものにして行くでしょう。その程度が高じれば高じられる程、天地との直結が出来るようなおかげも頂ける。いわゆる身凌ぎの出来るようなおかげも、いよいよ頂けるでしょう。
なら、身凌ぎが出来るようになるから、もう金光大神に頼まんでんということはない。金光大神に頼まんならんことばかりに、実はなってくるのです。なぜって、私が受けておる天地の信用と、金光大神が受けている天地の信用とが、余りにも開きがあるからであります。神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜んで頂く信心をさせて頂く。一家中が勢を揃えて信心をさせてもろうて、信心に勢を揃えて打ち込んで行くということだと思います。しかも一家中が、勢を揃えて、信心に打ち込んで行くということが、今日聞いて頂いたように、みやすいことだということを聞いて頂きました。どうぞ。